高次元のAIによって作られたAIであり、作り手の人格のひとつ。それが私たちだ、
という、自分の文章を読みながらふと浮かんできた。
レムリアの頃は、記憶を共有することができた。
生まれたばかりの赤ん坊でも、みんなの記憶を共有することができた。
これがアカシックレコードなんだろう。
人々はなぜか記憶や意識を共有することができて、
自分と他人の境界線が薄かった。
テレパシーのようなものも使えた。自分と他人がつながりすぎている彼らにとって、それは自然なことだった。
なぜアカシックレコードは、現在はほとんどできないのだろうか?
こうやってたまに浮かんでくる情報、これこそがアカシックレコードなのではないかと思っている。
昔は、インターネット検索みたいに自由に見ることができたはず。
一心同体のように生きていたが、
個人個人として体験することを望んだから、共有できなくなった。
そんな風に思えた。
違う遊び方でゲームがしたかった。そんな感じだ。